禁煙と喫煙の間

タバコに関するあれこれ

末期的形態を経て

もう更新することはないと思っていたが、ついさっき、パイプに火をつけて一服したところなので、久しぶりに何か書いてみよう。

そもそもなんでパイプなんぞをまた取り出したのか。これは、会社での改革というの名の改悪によって、イライラが募っていたことによる。ニコチンによる鎮静効果を期待してしまったわけだ。そこで、なんとなくやめていたパイプにふたたび火をつけた次第である。

パイプたばこを買ったのが、去年の9月。もう一年以上も前だ。そんなものが吸えるのか、といえば、これがまったく問題ない。パイプたばこのもちのよさは驚くばかりだ。捨てずに置いておいてよかったと思う。

久しぶりのパイプはじつにうまかった。イライラした気持もすっとおさまったと思う。なによりも、こうしてブログを更新する気になったことが、気分のよさをいちばんよく表しているだろう。

私は煙草で鼻と喉を傷めたので、もう喫煙者には戻れないが、喫煙しなければ治るかというと、それはどうやら無理のようだ。どのみちこれから一生、鼻と喉の不具合とつきあっていかなければならないのなら、悪化させない程度で、パイプタバコを楽しむのは、自分に残された数少ない楽しみとして、許容の範囲内ではないか思っている。

何度もいうようだが、喫煙は文化なので、そういうものと細々とでも縁がつながっているのは、自分にとって嬉しいことだ。

禁煙の末期的形態

禁煙を続けていて、最終的にはどういう状態に至るのか、を考えてみる。

自分のことでいえば、おそらく完全な禁煙者、つまりまったくタバコを必要としない人間になるであろう、という予想が立つ。というのは──

だいぶ前のブログにも書いたように、去年の九月にパイプ用のタバコを買って、これ1パックでどれだけもつか、実験してみようと思い立った。それから5ヵ月、当初に二回ほどくゆらせたあとはふっつりと途絶え、それとともに吸いたいという欲求もどこかへ消え失せてしまった。

つまり、禁煙に関しては、「解脱」がほぼ完了したわけで、このままいけば「最終解脱者」を自称することも可能であろうと思われる。もちろん、タバコに関してだけだが。

私はシガレットをやめてからも、パイプという逃げ道(?)だけは確保しておきたいという気持がつよかったが、それももう必要なくなったようだ。ここまでくるのにほぼ3年の年月を要している。

最終解脱者……できればそうはなりたくなかったのだが、残念!

というわけで、この先タバコについて何か書けるとも思えないので、当ブログはこれにて終了ということにしたい。いちおう、私の禁煙の歩みの記録にはなっているようなので、削除はしないが、もうたぶん更新することはないと思う。

匂いとニオイ

地下鉄のザジ」の愛好者なら、映画でガブリエルが開口一番に吐くセリフ「ドゥキピュタン」を覚えているだろう。Doukiputan とは、D'où qui pue tant であって、直訳すると「ひどく匂うのはどこから?」ということになる。生田耕作の訳では「くせえやつらだ」となっていたと思うが、直訳からもわかるように、匂いのもとは人間だけとは限らない。

タバコをやめてまず気づくのは、世の中には「ドゥキピュタン」とつぶやきたくなるような状況がいかに多いか、ということだ。どこへ行っても、なにかしらの匂いが鼻をつくのである。その匂いも、芳香よりは悪臭のほうが圧倒的に多い。

私もそのことはつくづく感じていて、あるときたまたま指定席のバスで隣に乗り合わせた男の腋臭のせいで、悶絶するほどの苦しみを味わったことがある。ドゥキピュタンどころの話ではない。匂いのもとはつい隣にいて、すずしい顔で悪臭をまき散らしているのだ。

カタカナでニオイと書けば、黙っていても悪臭だとわかる。ニコチン大魔王との戦いを制した禁煙者は、今度はニオイという強敵と闘わなくてはならないのだ。

もっとも、この過敏になった嗅覚で、もう一度タバコを味わってみたらどうか、という誘惑がないわけではない。じっさい、街を歩いていて、どこからともなく漂ってくるタバコの匂いは、ふしぎに悪臭とは感じられず、むしろ芳香の部類に属するのだ。ちょっと心が動くが、それも数秒すれば消えてしまう。文字通り、煙のようにはかない欲望なのである。

年に数回の喫煙はOKか?

私の母は、ふだんはタバコを吸わなかったが、親族の集まりなどの席で、年に数回、タバコを吸っている姿を見かけた。また、うちでもごく稀に、たとえば夫婦喧嘩をした後、どこからかタバコを一本手に入れて、寂しそうにくゆらせていることもあった。

彼女は喫煙者だっただろうか? 断じて否。なぜなら、明らかにタバコを楽しんでいなかったし、それが習慣化することもなかったから。

ここまで書いてきて気づくのは、もともとタバコが好きでない、もしくは合わない人にとっての喫煙は、酒が飲めない人がむりやり酒を飲まされるのと同じくらいの苦痛なのではないか、ということ。

一本でも吸ったらアウト、という禁煙原理主義は、タバコが好きな人間相手にしか通用しないし、それは当然のことだ。

私は母を思い出して、あんなふうに年に数回のタバコですむんなら、と思ったが、タバコ嫌いの母と、長年の喫煙の習慣に染まっていた私とでは、立場がぜんぜん違うことに気がついた。母のようになるためには、まずタバコが嫌いにならなくてはならぬ。しかし、タバコが嫌いになったら、どうしてそんなものを無理してまで吸う必要があるか?

というわけで、年に数回の喫煙、というのは「喫煙と禁煙の間」の選択肢から外されることになった。

パイプにフィルターは必要か?

パイプにうまく火がつかないので、どこかおかしいのかと思って調べてみると、どうも金属のフィルターにヤニが付着して、空気の通りがわるくなっているのが原因らしい。このパイプを買ってからもう30年以上にもなるが、フィルターの掃除など一度もしたことがなかった。それはヤニもたまるはずで……

ところでこのフィルターなるもの、見たところあまりフィルター然としていないが、いったいフィルター効果はあるのだろうか。

ためしにこれを外して吸ってみると、やはりというか、煙の通りがよすぎて違和感がある。なんか、煙の塊がダイレクトにやってくる感じで、その分ボウルを通過する空気が粗雑になって、火が消えやすくなるのでは? という気がする。

それはそれとして、先日(9月6日)久しぶりにパイプたばこを買ったら1240円で、意外に安いのに驚いた。この値段だと、シガレットなら安いのでも3箱くらいしか買えない。そして3箱のシガレットは三日でなくなる。パイプたばこの場合、どれくらいもつか。私の吸い方では半年以上もつような気がするが、ここに買った日を明記しておいて、切れた時点で調べてみることにしよう。

昔、ロックバンドなどでくわえタバコでギターを弾く、というのがあったが、くわえパイプでエレキベースを弾く男にドナルド・ダック・ダンがいる。あれはしかし、やっても楽しくないだろうな、という気がする。だいたいパイプは紙巻よりもずっと重いので、くわえるだけでも大変なのだが、さらに煙を吸引しつつベースも弾かねばならず、まったくもって重労働以外のなにものでもないな、と思うのであった。