由良君美のパイプ頌
英国のさる詩人の詩句に、
おれはワイフとパイプを残して死ぬ。
どうかパイプを大事にしてくれ。
というのがあるらしい。パイプというのは、ある種の人間にはそれほど大切なものなのだ。
由良君美といえば、私にとっては輝かしい名前である。十年ほど前、四方田犬彦が評伝「先生とわたし」を書いてちょっと話題になった、あの人物だ。その由良に、「パイプとわたし」と題するエッセイがある。
昭和47年(1972年)に書かれたものだが、そこに「タバコは公害に準ずる悪党として世の非難攻撃を一身にひきうけているこのご時勢」とある。当時すでに今日のバッシングに相当するものがあったのだろうか。
これに続いて、「可愛想に。寄ってたかって弱い者いじめをしてやがるな。排気ガスなんて大悪党を野放しにしておいて。そんなら、よし、ひとつ弁護してやるぞ、居直ってやるからな、見てろ。一〇年以上も続いている僕とパイプの仲だ」とある。タバコと排気ガス。これも今に通じるものがありますね。
「惚れる以上は毒も承知。毒があるから薬にもなる。……タバコ有害説を熱心に信じ実行する奴は、ぜひとも、恋愛や結婚は《健康のために》なさることだ。さぞや衛生管理一〇〇パーセントの、科学ユートピア的マイホームが誕生するだろう。……無菌的ユートピアは、せいぜい総タイル張りの、リゾール臭のたちこめる部屋のなかの、塩化ビニール製肥満児の群しか生産しないだろう」
このあたり、ちょっと意味不明ながら、筆者の意気込みだけは伝わってくる。
その次の、タバコと書物を作る紙との比較もよくわからないので飛ばすとして、さらに、
「荒地のなかに生きぬいたヒースの根──その根を掘りおこして、アルチザンが心をこめて手で掘りぬいたブライアーのパイプのボウルに、慣れた指先で、タバコの葉を適度にもみあげながら詰め、さてゆっくりとマッチの軸木が指先を焦がすまで、万辺なく火を点じ、肺の呼吸をとめ、腹のリズムにたよりながら、急がず焦らず、ボウルの底の底まで、残りなく灰に化する法悦と抑制と忍耐とは、癇癪もちで喜怒哀楽の奴隷だった僕を、どれだけ修練させ、どうにか人並みの人間として生きられるようにしてくれたことか」
息の長い文章だが、パイプ喫煙の醍醐味はほぼこの数行につきている。
さらに、シガレット党(ふつうの喫煙者)を「受験生的」ときめつけたうえ、「命の火を残りなく燃えつくす満足を、どうして君は求めようとしないのか。毒と知りつつタバコを吸う君ともあろうものが。吸いつくしたまえ、燃やしつくしたまえ、君の命の火を。毒をおもんぱかって、変なものを先につけたり、中途で逃走するくらいなら、ママゴンをご神体にして、はじめからつき合わないことだ。いっそ良俗づらをし、ピラトを気取ることに、君の充足理由を見いだしたまえ」と檄をとばす。
「燃やしつくすには、シガレットはもちろん、シガー(葉巻)でも駄目なのだ。パイプしかない。シンダース(燃えがら)を美事につくり、吸いおわるごとに、想いたまえ、念じたまえ、《メメント・モーライ》の人類とともに古いトポスを。これは文学と愛との秘儀が、宿る場所だ。シガレットでもシガーでも、こればかりは味わえない」
だんだん酔っぱらいのたわごとじみてくるが、こういう文化としての面がタバコにあることを忘れてはいけないと思う。