禁煙と喫煙の間

タバコに関するあれこれ

たばこ屋の娘

「たばこ娘」の評判をネットで探していたら、「たばこ屋の娘」というマンガがあることを発見した。作者は松本正彦という人。まったく知らない人だが、これもなにかの縁と注文して読んでみた。

私は漠然とつげ義春の「古本と少女」みたいな話を期待していたんだが、読んでみるとまるで違った。おもしろいお話ではあるが、タバコはほとんど関係ない。

とはいうものの、これがパン屋の娘や、花屋の娘では、やっぱり話が成り立たないのではないか。パン屋小町とか、花屋小町というのはあまり聞かないが、タバコ屋小町はけっこうあちこちにいそうな気がする。

まあ、街角のタバコ屋そのものが少なくなって、みんなコンビニでタバコを買う時代だから、もうこのマンガのようなシチュエーションは成立しないだろう。そして、コンビニ小町なんていうものは存在のしようもないものだ。



たばこ屋の娘

たばこ屋の娘


もうひとつ、ネットでの拾い物だが、「煙草屋の娘」という古い流行歌。


「たばこ娘」再読

日本のタバコ文学のなかでも屈指の名作だと思っていた源氏鶏太の「たばこ娘」。これを読み直してみたが、どうもあまりおもしろくない。もともとそう深みのある話でもないので、読めば読むほどその底の浅さが露呈するのか、とも考えたが、そればかりではないようだ。どうやらこれば、私がタバコを吸うのをやめてしまったことからくる、タバコ熱の全般的な低下によるものらしい。

この作品のほうぼうにちりばめられている、タバコ礼賛の文句の数々。それが現在の私にはひどく間の抜けた、実感の乏しいものにみえてしまう。ちょっと引用してみよう。

……と思ったが、やめた。つまんなくて、書き写す気がしない。

読み直さなきゃよかったな、と思う。そうしていれば、「たばこ娘」は日本タバコ文学史上、屈指の名作としての地位をいまなお(私のなかで)保っていただろう。

ことほどさように、禁煙はタバコを吸う楽しみを奪うだけでなく、タバコにまつわるあれやこれやまで色あせたものにしてしまう。禁煙して人生が豊かになったと感じる人はおそらく少数派だ。なぜなら、人間は切り捨てることによっては幸せにはなれないのだから。

電子タバコ不要論

最近では電子タバコを吸ってる人をよく見かけるようになった。自分の周囲にもそういう人はちらほらいる。ふつうのタバコと並行して吸っていたのが、だんだん電子タバコのほうに重点が移動して、いまではもっぱらそっちばかり、という人もいる。

おそらくかつてタバコを吸ったことのある人間には、わりとすんなりなじめるもののようだ。しかし自分ではそういうものを吸おうという気にはなれない。なぜかといえば、見た目がまったく魅力的でないからだ。チャチな箱に細いストローを突っ込んでチューチュー吸っているような、あんなみじめな姿を他人には見られたくないのである。

──べつにカッコつけて吸ってるわけじゃないから。

まあそうかもしれないが、タバコを吸うという行為には、それに伴うかっこよさが不可欠のような気がするのだ。われわれが若いころにタバコに憧れたのは、やっぱりその吸ってる姿がカッコいいとか、そういうのも大きかったと思う。一種のダンディズムであり、喫煙という行為には大昔からこのダンディズムと切っても切れない縁があった。

タバコが好き、というより、タバコを吸ってる自分が好き、という人も多いと思うし、それはそれでりっぱな喫煙のあり方だと思う。それともうひとつ、これも若さの特権だが、不健康な行為で体を痛めつけたいという欲求も喫煙のなかに含まれている。一種の自傷行為であって、褒められた話ではないが、これもやはり広義のダンディズムであろう。

というわけで、男にとってはダンディズムの裏打ちのない喫煙などほとんどなんの価値もないのだ。私が電子タバコに手を出さない所以である。

夢の中の喫煙

喫煙者でも禁煙者でもない、その中間を目指すという私の意図は、まったくもって実現がむつかしいことに気がついた。タバコというのは、吸うか吸わないかのどちらかなので、その中間なんてものはないのではないか。そう思うようになった。

じっさいのところ、パイプも含めて、ここ数ヶ月、喫煙から完全に遠ざかっている。いうなれば完全禁煙だ。一般に禁煙とはこういう状態をさすのだろう。禁煙者としては申し分ないが、自分の目指す境地とはちがう。たとえば、週末のゆったりした時間に、パイプなりシガーなりをくゆらすのは私の夢だったし、それはけっして実現不可能というようなものではない。にもかかわらず、現実としては、どんどん完全禁煙者のほうへ近づいている。

そんな私が心置きなくタバコが吸える唯一の時空が、睡眠中の夢なのである。どういうわけか、夢のなかでは喫煙者に戻っていて、戻っていることに諦めを伴った安心感をおぼえている。やっと本来の自分に立ち戻ったような安心感だ。そして、夢のなかで吸うタバコのうまいことよ。起きているときはタバコの味なんて思い出しもしないし、できもしないが、眠っているときはそれがはっきり味覚、嗅覚に感じられる。意識的には忘れたつもりでも、無意識ではしっかり覚えているのだ。

いつかそのうち、タバコを吸ってる夢もみなくなるのかもしれない。そのときが、私とタバコの決定的な別れとなるだろう。

citariusの異常な愛情または私は如何にしてタバコをやめ、パイプを愛するようになったか

2016年10月23日に書いた日記の再録。某所にあげていたが、どうも場違いのようなのでこっちに移すことにした。


     * * *


タバコを吸わなくなってはや4ヶ月が経った。うむ、いい感じですね。なにがいいかって、タバコの支配を徐々に脱しつつあるのが実感できること。私はべつに禁煙をどこまでも押し通すつもりはない。タバコに生活を支配されるのが嫌なので、タバコそのものは嫌いにはなれない。なんといってもタバコの文化的重要性には無視できないものがありますからね。

そんなわけで、最近はパイプに親しむことが多くなった。多いといっても、数日おきにしか吸わないから、買ったタバコがいっこうに減らない。



タバコ(シガレット、紙巻タバコ)がなんでああも依存性が高いかといえば、添加物が多く含まれていることと、肺喫煙がよろしくないようだ。じっさい、同じくニコチン摂取といっても、燻らすだけのパイプタバコではまったくといっていいほど依存は生じない。何日吸わずにいても平気というのは、なんといっても気分のいいものだ。

まあパイプというのは、本気になって追求すると、いくつも超えなきゃならないハードルが出てくるらしいが、ちょっとだけニコチンを摂取する目的なら、とくに身構える必要はない。用意するのはパイプとタバコだけ。あとマッチをはじめいくつか小道具がいるが、そんなのはすぐに手に入る。

うまい人が吸うと一回で2時間くらい吸えるらしいが、2時間も煙を吸引していては体がもたない。よほど健康な人以外には薦められない喫煙法だ。私は10分で満足する。私の詰め方ではだいたい10分で火が消える。それだけでじゅうぶんだ。下の方に残ったタバコはフィルターだと思えばいい。

吸った後は小まめにパイプの手入れをする。これがまためんどくさく、パイプが一般に広まらない要因になっている。そういえば、火をつけるのにもマッチ3本はすらないといけない。シガレットのようにポケットから出してすぐ着火、というわけにはいかないのだ。

あらゆる意味でめんどくさいからこそ、つい億劫になって吸う回数が減る。これがいいのである。いつまでたっても喫煙が習慣として定着しないことが、ニコチン大魔王(というほどのキャラではないが)の支配を受けず、逆にこれを支配するための要諦なのだから。

というわけで、たまのパイプたばこは禁煙している人にもおすすめだ。癖にならない程度でニコチン摂取ができる。ただし、煙を肺に入れたら終りだよ。あっというまに喫煙常習者に戻ってしまうからね。

最後に私の好きな喫煙ソング「くすぶった男が(Fumeux fume)」を紹介しよう。アルス・スブティリオル屈指の名曲で、作者はソラージュ(Solage、14世紀の人)。題名どおり、くすぶったような曲調がじつによい。はじめて聴いてピンとこない人も、何度か繰り返し聴いてみてほしい。まるでニコチンのごとく、じわじわと効いてくるから。