禁煙と喫煙の間

タバコに関するあれこれ

ピエール・ルイスのタバコ小説

半世紀ほど前まで、タバコ本や喫煙エッセイといえばきまって引用されるものに、ピエール・ルイスの「新しい快楽」という短篇がある。ためしに古本屋へ行って、その手の本を探してみるといい。どこかに必ずルイスの名前は出てくる。戦前のタバコ文学の代表的なのは、まずこの作品だと思ってまちがいない。

現在では世界的に喫煙への締め付けがきついので、もうタバコ文学なんていうものは世に出ないだろう。そう思うと、この短篇は、今後二度とは現れない、ある種の極北のような作品だという気がしてくる。

さてその内容だが、ここで下手な筋の紹介をするよりも、ちゃんとした翻訳を読むほうがいいだろう。なにしろ古今に冠絶する(?)たばこ文学の金字塔なので、興味がある人は生田耕作の訳した「紅殻絵」を買うか、図書館で借り出すことをおすすめする。

これを読んで、なんだつまらんと一蹴するか、さこそと膝を打つか、その反応によって読み手の愛煙もしくは嫌煙の度合いが測られる、リトマス紙のような作品。

タバコの値上げについて思うこと

またタバコが値上りするという。まあめちゃくちゃな大幅値上げというわけではないので、喫煙者もしぶしぶ納得というところかな。私の思うのに、だいたい600円くらいまでならなんとかなりそうだ。しかし700円になると、たぶんあちこちから悲鳴が上がってくるだろう。なにしろ700円といえば昼食代としてもけっこうな出費になる。タバコごときに700円も出せるか、というのが正直なところではないか。

1000円。これはもはや論外だ。1000円にしますといえば、たぶん明日から喫煙する人が続出するだろう。しかし、これはあえてやってみる価値はある。1000円にして、はたして税収がどう増減するか。トントンもしくは微増ならば御の字ではないか。もし下がったら、それも大幅に下がったら、そのときは値下げをすればいい。

500円のが700円になればみんな渋い顔をするが、1000円のが800円になったら、いったん離れていた人々もまた戻ってくるだろう。確証はないが、そんな気がする。

私の買っているパイプ煙草は値上げの対象外だった。まあ少々値上げされたところで、一年に一袋しか買わないので、たいして痛くはない。しかし、アメスピのパイプ煙草が出ているとは、今回初めて知ったよ……

パイプ煙草は燃やしつくすべきか?

前回紹介した由良流パイプ道では、とにかく燃やしつくすことに意義があるような書きぶりだった。そして、燃やしつくすにはパイプでないとダメだということだったが、そういうわけでもない。というのも、フィルター付きのタバコだってその気になれば燃やしつくすことができる。フィルターに火が移る直前まで吸えばいいわけだから。これは俗にいう「根元まで吸う」やり方で、その気になればだれでもできる。

しかし、そうしたからといって、「君の命の火」を燃やしつくしたことになるだろうか。当人はその気でも、はたからすれば「いじましい」とか「あさましい」とかいうふうにしか映らないのではないか。

パイプの場合も同断である、といったら怒られるかもしれないが、ボウルにつめたタバコがぜんぶ灰になったからといって、とくにたいしたことを成し遂げたわけではない。せいぜい、それを続ければカーボンが均等に付着するというくらいしか実益はない。そして、心理的には燃やしつくしたという快感があるとしても、生理的にはいろいろと問題がありそうなのである。

私もたまに「燃やしつくす」ことがある。偶然タバコの葉がうまく詰って、火のめぐりがいい場合には、最後の一片を灰にするまで吸い続けることができる。

しかし、火が消える直前に吸引している煙はどういうものかといえば、たぶんそうとうおぞましい状態になっているのではないかと思う。論より証拠。最後のほうのパイプの煙は、てきめんに喉にくる。喉にヤニがべっとり付着していくのがはっきり体感できるのである。そのときの煙の味がうまいかまずいかといった話ではない。これ以上吸い続けると喉がやられてしまうという感覚のほうが勝ってくるのだ。

由良は「毒があるから薬にもなる」というが、パイプの最後のほうの煙は「薬になりようのない毒」のような気がする。「この味がわからんようじゃ話にならん」とパイプ通はいうかもしれないが、私はごめんだね。パイプと長く付き合おうというのなら、なるべく危険な領域は避けることだ。

できることなら、パイプの底のほうにはタバコを固めにつめて、フィルター代りにしたいくらいだ。つめたタバコの上半分だけ吸ってもじゅうぶんに楽しめるのがパイプ煙草のいいところだと思うが、どうか。

由良君美のパイプ頌

英国のさる詩人の詩句に、

おれはワイフとパイプを残して死ぬ。
どうかパイプを大事にしてくれ。

というのがあるらしい。パイプというのは、ある種の人間にはそれほど大切なものなのだ。

由良君美といえば、私にとっては輝かしい名前である。十年ほど前、四方田犬彦が評伝「先生とわたし」を書いてちょっと話題になった、あの人物だ。その由良に、「パイプとわたし」と題するエッセイがある。

昭和47年(1972年)に書かれたものだが、そこに「タバコは公害に準ずる悪党として世の非難攻撃を一身にひきうけているこのご時勢」とある。当時すでに今日のバッシングに相当するものがあったのだろうか。

これに続いて、「可愛想に。寄ってたかって弱い者いじめをしてやがるな。排気ガスなんて大悪党を野放しにしておいて。そんなら、よし、ひとつ弁護してやるぞ、居直ってやるからな、見てろ。一〇年以上も続いている僕とパイプの仲だ」とある。タバコと排気ガス。これも今に通じるものがありますね。

「惚れる以上は毒も承知。毒があるから薬にもなる。……タバコ有害説を熱心に信じ実行する奴は、ぜひとも、恋愛や結婚は《健康のために》なさることだ。さぞや衛生管理一〇〇パーセントの、科学ユートピア的マイホームが誕生するだろう。……無菌的ユートピアは、せいぜい総タイル張りの、リゾール臭のたちこめる部屋のなかの、塩化ビニール製肥満児の群しか生産しないだろう」

このあたり、ちょっと意味不明ながら、筆者の意気込みだけは伝わってくる。

その次の、タバコと書物を作る紙との比較もよくわからないので飛ばすとして、さらに、

「荒地のなかに生きぬいたヒースの根──その根を掘りおこして、アルチザンが心をこめて手で掘りぬいたブライアーのパイプのボウルに、慣れた指先で、タバコの葉を適度にもみあげながら詰め、さてゆっくりとマッチの軸木が指先を焦がすまで、万辺なく火を点じ、肺の呼吸をとめ、腹のリズムにたよりながら、急がず焦らず、ボウルの底の底まで、残りなく灰に化する法悦と抑制と忍耐とは、癇癪もちで喜怒哀楽の奴隷だった僕を、どれだけ修練させ、どうにか人並みの人間として生きられるようにしてくれたことか」

息の長い文章だが、パイプ喫煙の醍醐味はほぼこの数行につきている。

さらに、シガレット党(ふつうの喫煙者)を「受験生的」ときめつけたうえ、「命の火を残りなく燃えつくす満足を、どうして君は求めようとしないのか。毒と知りつつタバコを吸う君ともあろうものが。吸いつくしたまえ、燃やしつくしたまえ、君の命の火を。毒をおもんぱかって、変なものを先につけたり、中途で逃走するくらいなら、ママゴンをご神体にして、はじめからつき合わないことだ。いっそ良俗づらをし、ピラトを気取ることに、君の充足理由を見いだしたまえ」と檄をとばす。

「燃やしつくすには、シガレットはもちろん、シガー(葉巻)でも駄目なのだ。パイプしかない。シンダース(燃えがら)を美事につくり、吸いおわるごとに、想いたまえ、念じたまえ、《メメント・モーライ》の人類とともに古いトポスを。これは文学と愛との秘儀が、宿る場所だ。シガレットでもシガーでも、こればかりは味わえない」

だんだん酔っぱらいのたわごとじみてくるが、こういう文化としての面がタバコにあることを忘れてはいけないと思う。

禁煙是非

タバコをやめてなにかいいことがあったか。私の場合、はっきりしているのは、そのぶんお金が浮いたことくらいだ。健康面では、たしかにやめた当初はなんとなく体も軽く、二、三歳は若返ったような気がしたが、文字どおり気がしただけで、じっさいはほとんどなにも変りはしない。少なくとも体感するかぎりではそうだ。とくにここがよくなったということもなければ、ここがわるくなったということもない。

それではタバコをやめて不都合なことはといえば、こっちははっきりしている。人生の楽しみがひとつ確実に減った。これはもうどうにもほかでは埋め合せのしようがない。私はパイプでの喫煙はたまにやっているが、パイプはタバコ(シガレット)の代用にはならない。おそらくシガーでも無理だろう。タバコの代りになるものはタバコしかない。

しかし長くタバコをやめた人間は、そうやすやすと喫煙の道には戻れないのである。なぜか知らないが、ひとにすすめられても、「いや、いいです、もうやめたんで」と答えてしまう。喉から手が出るほど欲しいというわけではないのだ。

まあいずれにせよ、私がふたたび喫煙者に戻ることはないだろう。体にいいことが実感できなくても、喫煙は確実に体をむしばむ。悪魔は足音もさせずに近づいてくるのだ。

しかし、天使もまた音もたてずにやってくるに違いない。同じようにみえる道でも、片方は地獄に、片方は天国に通じている。私はいま天国への道のほうを歩いているという自覚がある。この自覚が、喫煙者に戻ることをさまたげているのだと思う。