禁煙と喫煙の間

タバコに関するあれこれ

パイプ煙草は燃やしつくすべきか?

前回紹介した由良流パイプ道では、とにかく燃やしつくすことに意義があるような書きぶりだった。そして、燃やしつくすにはパイプでないとダメだということだったが、そういうわけでもない。というのも、フィルター付きのタバコだってその気になれば燃やしつくすことができる。フィルターに火が移る直前まで吸えばいいわけだから。これは俗にいう「根元まで吸う」やり方で、その気になればだれでもできる。

しかし、そうしたからといって、「君の命の火」を燃やしつくしたことになるだろうか。当人はその気でも、はたからすれば「いじましい」とか「あさましい」とかいうふうにしか映らないのではないか。

パイプの場合も同断である、といったら怒られるかもしれないが、ボウルにつめたタバコがぜんぶ灰になったからといって、とくにたいしたことを成し遂げたわけではない。せいぜい、それを続ければカーボンが均等に付着するというくらいしか実益はない。そして、心理的には燃やしつくしたという快感があるとしても、生理的にはいろいろと問題がありそうなのである。

私もたまに「燃やしつくす」ことがある。偶然タバコの葉がうまく詰って、火のめぐりがいい場合には、最後の一片を灰にするまで吸い続けることができる。

しかし、火が消える直前に吸引している煙はどういうものかといえば、たぶんそうとうおぞましい状態になっているのではないかと思う。論より証拠。最後のほうのパイプの煙は、てきめんに喉にくる。喉にヤニがべっとり付着していくのがはっきり体感できるのである。そのときの煙の味がうまいかまずいかといった話ではない。これ以上吸い続けると喉がやられてしまうという感覚のほうが勝ってくるのだ。

由良は「毒があるから薬にもなる」というが、パイプの最後のほうの煙は「薬になりようのない毒」のような気がする。「この味がわからんようじゃ話にならん」とパイプ通はいうかもしれないが、私はごめんだね。パイプと長く付き合おうというのなら、なるべく危険な領域は避けることだ。

できることなら、パイプの底のほうにはタバコを固めにつめて、フィルター代りにしたいくらいだ。つめたタバコの上半分だけ吸ってもじゅうぶんに楽しめるのがパイプ煙草のいいところだと思うが、どうか。